天草四郎時貞

2010年12月17日

若くして散った伝説のキリシタン

天草四郎ゆかりの里の碑の写真1637年、キリシタンから“天の使い“とあがめられていた天草四郎は、3万7千人の民衆を指揮して、強大な幕府軍と戦いました。これが天草・島原の乱です。

四郎は、1623年に長崎で生まれ、小さい頃は宇土で育ちました。父親は益田甚兵衛といって、元は小西行長の家来で、宇土の江部村(現在の旭町)に住んで農業をしていました。

四郎は小さい時から学問が好きで、長崎でキリスト教の勉強をしていたといわれています。また、天草の大矢野には四郎の祖父が住んでいましたので、長崎と天草は四郎にとってゆかりの地だったようです。四郎は、後に天草四郎時貞(洗札名ジェロニモ)と呼ばれるようになり、天草・島原の乱当時はわずか15才ほどでした。

3代将軍徳川家光の時代には、キリスト教禁止の方針がますます厳しくなり、天草や島原地方でもキリシタンを探し出しては弾圧を加えました。その上、凶作が続いても年貢のとりたては容赦なく、農民の生活はひどく苦しくなり、不平不満も次第に高まっていきました。

このような時代でもあり、奇跡を起こす“神の子“として崇められるようになっていた”益田四郎“の名は、天草地方ばかりでなく島原地方の農民の間にも広まり、疲れきった農民は、その奇跡によって救われることを期待するようになりました。

1637年10月15日、島原で遂に一揆がおこりました。それと呼応するように同月29日には、天草のキリシタンも一揆をおこしました。

天草の一揆勢は島原ともよく連絡をとり、有明海に浮かぶ湯島(談合島)で話し合いをし、キリスト教の名のもとに団結して上津浦から本戸(本渡)に向かいました。そして広瀬の戦いで三宅藤兵衛を切腹させ、海を渡って島原の一揆勢と合流し、デウス(神)の旗のもとに島原半島の原城に立てこもりました。原城に立てこもった一揆勢は、天草から島原に渡った一揆勢も合わせると3万7千人にも及んだとされています。

この一揆勢は天草四郎の指揮のもとに団結して、12万を超える幕府軍に対して抵抗を続けましたが、大軍に取り囲まれ食糧や玉も尽きた1638年2月に遂に原城も落ちてしまいました。一揆勢は最後まで戦って討ち死にし、生き残った者も全て処刑され、原城の外には1万数千もの首がさらされたといわれます。

一揆勢と運命を共にした四郎ですが、その死体も見つからなかったといい、最後までその姿を現さないまま闇の中へ消え去ってしまいました。

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