宇土城跡

2012年04月01日

中世宇土城跡(国指定史跡)

宇土城跡の写真現在の市街地の西側に位置し「西岡台」と呼ばれる、小高い独立した丘稜を利用して築かれています。この丘稜は、東西の長さが約700メートル、南北の最大の幅が約350メートル、最高位部の標高約39メートルであり、この丘のほぼ全域が城域であったと考えられています。

中世宇土城の中心になるのが「千畳敷」と呼ばれるところで(写真奥)、おびただしい数の柱の痕跡が重なりあって残っていました。このことは建物が何回も建てかえられたことを示しています。この千畳敷は、古墳時代前期(4世紀頃)には防御機能を持った首長の居館としても利用されており、5 世紀頃には古墳が造られた形跡もあります。

中世宇土城の築城は、1048年(治承3年)と考えられていますが、城主は宇土氏や名和氏など度々代わっています。最終的には、1588年(天正 16年)宇土17.5万石の大名として入国した小西行長が、西岡台の東に隣接する通称「城山」に新城(近世宇土城)を建設した時点で、長い間続いた城としての役目を終えました。

現在、国の史跡に指定され、歴史公園としての整備が進められています。

近世宇土城跡

中世宇土城の東隣(城山)にあります。この城は、本丸・二の丸・三の丸という三つの郭を外堀と内堀で取り囲む重厚な構成になっており、特に本丸は三層の天守閣があったと伝えられ、堅い防御がなされていたようです。

近世宇土城はもともと小西行長が築いたものですが、1600年に小西が没した後、小西領も併合して肥後の領主となった加藤清正により大改修がなされています。現在、僅かに残っている石垣は、清正によって改修された時期のものと思われます。

小西が築き、加藤の大改修によって完成したと思われる宇土城ですが、清正の死後廃城となりました。熊本城にある三層の「小天守」の建築にあたっては、宇土城天守閣を移設したという説があります。

また、1637年にキリシタンと農民による「天草島原の乱」が起こると、廃城となっていた宇土城は再度破壊されました。城の名残すら留めないように徹底的に破壊された理由は、もともと小西行長の城下であったためキリシタンが多く、島原半島の原城のように「一揆が起こった場合の拠点」になることを恐れたためではないかと考えられています。

現在、近世宇土城の本丸は公園化され、小西行長の銅像が建てられています。

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