AIチャットボットに質問する

現存する熊本県最古の駅舎「網田駅舎」

2023年04月07日

網田駅の全景写真です 7月18日開催の文化審議会文化財分科会において、新たに166件の建造物を国登録有形文化財に登録するよう文部科学大臣に答申が行われました。このうち、網田駅舎も貴重な建造物としてその価値が認められ、このたび登録されることとなりました。


三角線の歴史

開業当時、門司-三角間が本線だった

 JR九州三角線は、宇土駅から三角駅に至る全長28.2kmの鉄道路線です。当初は、九州鉄道(株)(明治40〔1907〕年に国有化されて日本国有鉄道となった)が敷設した私鉄として、明治32(1899)年12月に開業しました。開業当時、門司-三角間が本線で、現在本線の宇土-八代間は支線(開業は明治28〔1895〕年)としての位置づけでした。現在、三角線の駅数は9駅(宇土市:宇土駅・緑川駅・住吉駅・肥後長浜駅・網田駅・赤瀬駅、宇城市:石打ダム駅・波多浦駅・三角駅)で、開業当時からの駅舎が現存するのは網田駅のみです。

三角線の沿革
表:三角線の沿革
西暦(和暦)できごと
1890(明治23)年九州鉄道(株)が宇土‐三角間の建設を開始
1899(明治32)年12月25日宇土‐三角間開業(網田駅開業)
1909(明治42)年国有鉄道線路名称設定により「三角線」と命名
1941(昭和16)年赤瀬仮停車場から赤瀬駅に
1963(昭和38)年準急「火の山」(三角‐熊本‐別府)運転開始(昭和61年終了)
1982(昭和57)年三角線全線で貨物営業廃止
1987(昭和62)年国有鉄道からJR九州(株)へ三角線を継承
2012(平成24)年12月JR九州(株)から宇土市が駅舎購入
2013(平成25)年10月「網田レトロ館」オープン


網田駅の歴史

以前の網田駅の写真です 網田駅は、宇土市西部の下網田町にあり、三角線のほぼ中間地点に位置します。駅建設に伴う工事は、明治31年に開始されました。網田駅停車場地上げ工事は、間(はざま)組が担当したとされ、また網田駅舎の建設も間組の施工とみられますが、『網田村郷土史』(昭和33年刊行)等の記載から、当時、間組にいた西松桂輔氏(西松建設創業者)が施工に関与した可能性があります。 網田駅舎は、正確な築年を示す棟札(むなふだ)や墨書(ぼくしょ)等の資料は確認できませんが、「九州日日新聞」明治32年12月23日の記事に、「既に落成」との記載があることから、同年12月25日の開通以前に完成していたとみられます。初代駅長は新美吉清氏ですが、助役・駅夫等の氏名はわかっていません。

網田駅舎の特徴【現存する県内最古の駅舎】

 網田駅舎は、現存する県内最古の駅舎として著名であり、九州でも最古級の現役駅舎です。特に重要なのは、九州鉄道(株)によって建築された駅舎のうち、現存する唯一のものである点があげられ、文化財的価値が高い建造物といえます。 駅舎の設計は、当時の九州鉄道(株)の技術者と想定されます。基本的な構造は、建築当初と大きく変更はないようですが、駅舎東側の一部は増築された跡があることから、駅舎建築当初は長方形平面だったとみられます。現在、駅舎西側は待合室、同東側は事務室、交流室等として利用されています。

網田駅舎の構造
表:網田駅舎の構造
基本構造木造瓦葺(桟瓦)平屋建て(屋根は寄棟)
建築面積約115平方メートル(下屋含め約174平方メートル)
外壁・内部の壁土壁漆喰塗り(腰部は板張りペイント仕上げ)
軸部木造真壁(壁筋交い不明)
小屋組み洋小屋(キングポストトラス)組み
その他下屋は装飾がある独立柱によって支持


地域活性化の拠点として

 三角線開業から110年以上経過していますが、網田駅は今も地域住民の通勤・通学等、日常生活になくてはならない交通機関です。また、近年注目を集める「フットパス」(田園地帯、街並み等、地域に昔からあるありのままの風景を楽しみながら歩くこと)のコースにも組み込まれていて、市における観光の拠点としても将来的に大きな役割を担うことが期待されています。 現在、網田駅はNPO法人網田倶楽部が指定管理者として、主に小学生の登下校の乗降時安全管理、切符販売、駅舎管理等を行っています。また、かつて駅員の休憩室だった場所は、現在、地元住民や来訪者が集う交流室として開放されていて、土・日曜、祝日には、軽食等を提供する「駅カフェ」を営業。市内外からの観光客でにぎわっています。

問合せ先

文化課文化係 電話番号0964-23-0156
まちづくり推進課市民活動支援係 電話番号0964-22-1111(内線808、809)



この記事へのお問合せ

担当部署:宇土市役所 教育委員会事務局 文化課 文化係

電話番号:0964-23-0156

お問合せフォーム