郷土が生んだ横綱

郷土が生んだ横綱

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今から約200年前、西暦1801年のことです。現在の宇土市栗崎町に男の子が生まれました。名前を近久信次といいます。幼い頃から力持ちで、村でも評判でした。

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父は嘉平といい、農業のかたわら郡の役人などをしていましが、信次が15歳の時にこの世を去りました。家業を受け継いだ信次は、仕事に励みました。

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少年の信次にはこんな話があります。近くの酒蔵から火が出たとき、信次は酒蔵に飛び込み、両手に四斗樽2つも(片手に60キロ)ぶら下げて出てきたそうです。

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信次は当時、なんと身長175センチメートル、体重約135キロもあったといいます。

祭りの草相撲でも、信次の右に出るものはいなかったそうです。

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やがて妻を迎え、2人の男の子が産まれました。一家は仲良く暮らしていましたが、信次が24歳になった時、力士になろうと単身、大坂にのぼることになりました。

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大坂相撲の名門、湊部屋に弟子入りし、肥後にゆかりの川の名をとって、白川と名乗り初土俵を踏みました。場所ごとに好成績をあげるので、注目を浴びました。初土俵から3年、27歳で大坂相撲の大関となり、名を「黒雲」と改名しました。

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当時、相撲の境は大坂相撲と江戸相撲に分かれていました。

黒雲は、天下の名力士になろうという志に燃え、大坂から江戸へ行き浦風部屋に入門します。

黒雲龍之介から、「濃錦里諾右衛門」と改名し、西暦1837年春に入幕しました。

2年後には、熊本藩のお抱え力士となり、郷土の名所にちなんで「不知火諾右衛門(しらぬいだくえもん)」と改名しました。

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翌年には、肥後の国で初めての横綱として、吉田家当主追風より横綱の免許を受けました。まわしの上にきりりと横綱をひきしめ、ジワリジワリとせりあがるその土俵入りの豪快さ。山も崩れんばかりの力あふれる技で観衆を魅了しました。

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西暦1843年、第12代将軍徳川家慶の上覧相撲が横綱の生涯の中での語り草となっています。この時の土俵入りには、露払いに高根山、太刀持ちに黒雲という玉名出身の郷土力士2人を従えての土俵入りだったようです。不知火諾右衛門は、近世の名力士として数えられています。

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西暦1844年、諾右衛門は正月場所で引退し、大坂の年寄りとなって相撲の発展に努めたそうです。

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西暦1854年7月24日、諾右衛門は54歳でこの世を去りました。

諾右衛門の墓は、出生の地・宇土市栗崎町の丘の中腹に建てられています。


 

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