8月17日(8時45分・宮窪水軍浜出港、16時40分鞆の浦入港)

大王のひつぎ実験航海事業

航海日誌

8月17日(8時45分・宮窪水軍浜出港、16時40分鞆の浦入港)

 潮流が海底の岩や起伏に当たって反転して湧き上がり、渦を巻く宮窪瀬戸に慎重に漕ぎ出す。

 曳航隊形で瀬戸からしまなみ海道東側に出て、向かい潮(逆潮)ながらも実験航海隊形をとれる海域を探すが4、5mの風と来島海峡東側の大きな潮流の乱れの影響か思ったより波が高い。内心「この程度なら漕いでいけるのでは」と思うが、学生さん(漕ぎ手)の身を守らなければいけない下川隊長は慎重だ。風と波に弱い古代船は、現代の思惑通りには進んでくれない。「漕ぎたい」「漕げない」。その2人の対立する思いが指揮船の操舵室で気まずい沈黙となる。

 瀬戸にはいると波も弱いだろうと赤穂根島と佐島の間から弓削瀬戸に。だが波は収まっても狭い水道では逆潮が強くなる。島影からはフェリーや貨物船、漁船が出てきて実験航海隊形どころではない。瀬戸をどんどん過ぎていく。沈黙が続く。

 瀬戸の出口でようやく「海王」だけ漕いだ。1ノット近くの逆潮、4~5ⅿの向かい風で3.2ノット。潮、風、波。学生さんは必死で漕ぐが船は進まない。「古代人は潮に乗り、風に乗り」などと言うがそう簡単にはいかない。目的地に向かう連れ潮(追い潮)や追い風は、長い航海でほんのわずかでしかない。例え順風でも岬をかわせば風が変わり、船を前に進ませる速い潮に乗せるためには日中のほとんどを潮待ちで過ごさなければいけない。それでは1年経っても大阪には着かないだろう。だから漕ぐ。だが「海王」だけなら5ノット行くが石棺蓋丸太船「有明」(全長8m)を曳くと3ノットだ。

 今日はひとつの目的があった。石棺身丸太船「火の国」を曳くことだ。水産大学校端艇部は20数人。石棺身の重さ4t、全長10ⅿの丸太船自重4.5t。それを曳いて行くには漕ぎ手が交代しながらいかないと長続きしない。今日は海上保安大学校2人、広島商船高等専門学校12人が来てくれている。三原瀬戸入り口を渡った横島沖で「火の国」曳航を実験。3校の力を合わせて「海王」+「火の国」が漕ぎ出す。渾身の力を込めるが、やはり重そうだ。潮は止まっている。まず全舷で漕いで1.7~2ノット。持続型の半舷交代漕ぎで1.5ノット。1時間ほどやっていると鞆の浦の方に向かう追い手の潮(0.5ノット)が出てきて、半舷でも2ノット程度にあがる。だが、それが限界・・・。

 やはりもっと大型の船があったのではないかと思ったが、交代の舵を握っていた水大OBの酒出昌寿さんが「『海王』と同じような船を大きくしてもそれだけ船が重くなり、おなじこと」と言う。丸太船もこの時代の技術では精いっぱいのものだ。船団に数多く「漕ぎ手積載船」がついていて、江戸時代の早籠のようにどんどん交代しながら行ったのだろうか。

 古代船団のほんとうの姿が、つかめそうでつかめない。そのあせりを載せて、「海王」を先頭に鞆の浦に入港した。

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