大王のひつぎ実験航海事業
航海日誌
8月12日(8時45分・三津浜港出港、13時40分・大井浜来島入港)
海はほんとにままならない。それに人間の心の動きがからみあうから船団運営は複雑だ。
明日からお盆。ほとんどがボランティアの有志である船団員だが、それぞれに家族と世間とのつきあいを持ちお盆休みくらいは必要だ。寄港地の人にもお盆に40人を超える船団員とう留の世話を焼かせるわけにはいかない。そこで設けた実験航海お盆休み。漕ぎ手の中には航海中におばあちゃんが亡くなったのにご両親から励まされてそのまま航海を続けている学生さんもいるし、長年連れ添った愛犬が危篤状態なのに踏ん張ってきた船長さんもいる。今日の目的地の大西から下関や九州までの道路事情も勘案すれば、入港時間を繰り上げなければいけないと陸上支援班に言って、大西の河野正文さんに午後2時入港に変更してしてもらっていた。もともと松山港は東西からの瀬戸内航路のフェリーが錯綜し、しかも潮が比較的速い高浜瀬戸にあるので曳航隊形をとらなければいけないところ。「海王」単船で漕ぎだした後、曳航隊形で進路を北東に取る。
だが、南西から昨日より強い追い風が吹いてきた。潮も連れ潮(進行方向への潮)だ。内心「ここで帆走と潮乗りができればな。皮肉なもんだ」と思っていたら、きまじめな宇野愼敏実行委幹事(考古学)から「まだ時間があるから実験隊形にしましょう」と提案が出た。だが下川隊長は「ここで隊形を変えていたら時間がなくなる」。海上で各船に昼食弁当を配るのにも30分かかるほど、船同士を接舷したり切り離したり漕ぎ手を乗り移らせたりの隊形変更には手間がかる。それになにより「今日は帰れる」と一路大西をめざしている船団員の気持ちがある。下川隊長はおそらくそれも見通してのことだろう。くたびれ果てて帰るより、心とからだに余裕を残し楽しく戻ってきて欲しい。船団としての「断」は曳航隊形続行に決した。
ところが速い潮に乗ったせいで大井浜港口に午後零時半ごろ着いてしまった。陸上の歓迎準備はまだ出来ていない。双眼鏡でのぞくと河野さんが岸壁の上で走り回っているのが手に取るよう。陸上支援班からもその状況報告がありしばらく待つことにしたが、海上の風で船団が陸側に押されるので曳航隊形のままエンジンを吹かして港口に戻るという繰り返し。口之津で古代船が思った以上に潮に乗って早く着き、待っていると潮に押されて港口から大きく流され、必死に漕いで戻していた状況と同じだ。陸の事情もわかるが、早く上がりたい船団員の気持ちもわかる。「海王」から「いつまで待つんですか」と言ってきて下川隊長も苦慮。午後1時半になり、しびれを切らせて「海王を出しましょう」と下川隊長に伝えた直後、陸側から隊長に直接「準備OK」と連絡してきた。口之津などの例もあり、陸上支援班にとって入港繰り上げを言ってきたかと思うと早めに着いたからと上陸をせかしてくる副船団長(私=板橋)は「わがままな海の独裁者」と思われているらしい。そう言えばいつもきつい漕行を繰り返させるので長田クール航海士からは「鬼の副船団長」と呼ばれている。まぁ、いい、だれか悪役を引き受けないとと思っていたが、どうやら今日は悪役になる寸前で済んだ。
大西の小さな幼稚園児たちから色紙で作ったレイを船団員全員に贈られて杉村船団長が目をうるませた歓迎式後、下関に帰る学生たちのバスを見送る。航海が始まって以来漕ぎ手たちを引っぱってきた山田艇長ら4人の3年生は盆明け後の学校の「乗船実習」のため今日が最後。彼らは数日前、「乗船実習を来年に回して、この航海をやりとげたい」と下川隊長に申し出ている。4年の夏には「航海実習」があり、3年時の「乗船実習」を繰り延べすると彼らにとってはとてもきついことになり、単位取得に大きなハンディとなる。それを承知での彼らの純粋な気持ちに胸を打たれる。結局、学校側の判断で戻ることになったが、その熱意はおそらく船団全員に伝わり、航海後半の心の支えとなるだろう。山田くんと3年生のみんな、ほんとうにありがとう。
(この航海の写真は、読売新聞のホーム・ページの中の「九州」をクリックするとプロの写真がほぼ毎日載ってますのでそちらで見てください。「掲示板」の管理人が写真を付けると書いているようですが、この「日誌」はあくまで文章記録とご理解ください)