8月11日(9時20分・森野漁港出港、16時40分・三津浜港入港)

大王のひつぎ実験航海事業

航海日誌

8月11日(9時20分・森野漁港出港、16時40分・三津浜港入港)

 自然というのは正直なもんだなぁ、つくづくそう思った。何のことかというと、「海王」の帆走。

 今日の航路は周防国(山口)から四国の伊予国(愛媛)へと渡るコース。大阪への東への進路を古代の地乗り航法で島伝い(この場合は防予諸島)に行くと四国とつながっていく。山口側最後の寄港地に周防大島・森野漁港を選んだのも、そこから松山が一直線で見通せるからだ。30ノットの漁船でわずか30分。さらに地元の人によると、大島の東南側は山口というより松山との通婚圏(つまり同一の生活圏)である。そんな事前調査を踏まえての「森野の津」寄港だった。だがこの海には、大型船航路が3本も錯綜している。現代的にはさっさと通り抜けなければいけないが、古代復元の実験航海がこの船団の使命。大島出身の民俗学者・宮本常一にならって前日寄港後に地元の漁師さんへの聞き取り調査をしたところ、午前中は森野沖の由利島付近から東への潮が流れるという。風の予報は南西より2~3mの順風。古代の潮乗り、風乗り(帆走)航法をやるには絶好のチャンスだ。

 いつものように「海王」+「有明」で漕ぎ出して約1時間。最初の大型航路が近づいたところで曳航隊形を取り現代的事情は現代航法で処理して由利島近くに。航路と航路の間、鏡のように静かな海域を「夢の古代の海」に見立てて、帆を上げた。潮乗りと風乗りの両方の古代航法の実験だ。海上に一面のもやが立ち、まるで道後温泉の湯煙のよう。その湯煙の中でお風呂で子供が喜ぶおもちゃ船と化した「海王」と「有明」だが、残念ながら無風。そこで1ノット前後の潮に流すこと1時間半。力の漕ぎが「動」とするとこちらは「静」、2隻の古代船はゆったりと潮に乗ってすべっていく。ところがのんびり古代風時の流れを楽しんでいると潮で北東に流されてしまい、大島の南東端へとコースから外れてしまった。力漕ぎでは漕ぎ手がくたびれて角が立ち、潮に棹させば流される。とかく古代航法は漱石同様ままならぬ。

 コースを戻すのと次の航路2本を横断するため曳航で松山沖に。そこでようやく風が出てきて、再度「海王」+「有明」の帆走実験。昨日の帆走は「海王」単船で試したが、石棺積載船「有明」をつないでこその「大王のひつぎ実験航海」。風は南南西2m。昨日は同じ風で2ノットでたが、今日は1ノット。「有明」の分遅くなったわけだ。秀才のうちの親父が数学に欠点をもらったぼんくら息子に「数学は自然の定理だ」などと気むずかしげに言っていたが、なーるほどと60近くなって悟ることに。

 さて、「熟田津に船乗りせんと風待てば潮もかないぬいまは漕ぎいでな」(万葉集)の斉明女帝の故事にちなんで水産大学校女子端艇部員を乗り込ませて「坊ちゃん」が上陸した三津浜港へと漕ぎ入れた。岸壁で待っていたのは斉明ならぬ土井貴美・松山市教育長。この松山の女帝は阿蘇ピンク石に興味しんしんで、古代服を着込んで岸壁の上から見ていたが、そのうちたまらず古代船へ飛び乗った。だが、勢い余って倒れ込みオールにおでこをゴチン。それでも立ち上がるや呵々と高笑い、坂本龍馬のあねさんの再来かとすっかり感心してしまった。

 上陸した漕ぎ手の学生には地元の『平成船手組』の計らいで焼き肉とビールの大歓迎。おっさん達の方は道後温泉に繰り込んでしばし文学と温泉、そしてアルコールの研究。松山の夜はこうしてふけていった。

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