8月10日(10時05分・佐賀漁港出港、16時55分・森野漁港入港)

大王のひつぎ実験航海事業

航海日誌

8月10日(10時05分・佐賀漁港出港、16時55分・森野漁港入港)

 水産大学校端艇部顧問である下川航海隊長に聞くと「普段のカッターの訓練や合宿で脱水症状など起こす学生はいない」という。カッターは海の格闘技と言われる。木の葉のようなカッターで20人力を合わせて大自然の荒波に挑んできた端艇部の若者たち。鍛えられたその彼らが、東シナ海、玄界灘と漕いできて、限界に達しようとしている。重い古代船、もっと重い石棺積載船。昔の人はもっと強かっただろうとは思えるが、DNAは同じなので限度はそう大きくは変わらないだろう。「古代の国家的事業なので、陸から応援漕ぎ手がどんどん出て交代した」ことも考えられる。ただ7世紀後半の律令体制以前、発展途上にある大和朝廷にとっては、まだまつろわぬ地方豪族の制海域では「孤独な航海」であっただろう。

 静かな有明海の「潮流流し」を除いて、外洋の東シナ海、玄界灘は力で乗り切るしかない。これまでそれを試してきた。だが、古代航法は自力漕行ばかりではない。

 「そろそろやるか」。帆走だ。力で乗り切る航法から、自然の力を利用する航法へ。古代航法のそのバリエーションを実験するには瀬戸内海は格好の舞台だ。長田クール航海士の海況情報収集では、今日は進路方向に吹く西南西の風。実験航海船団の「力」が限界に達しようとしている時に、その順風が吹いてきた。これまでの船団の苦労に、ようやく海が応えてくれようとしている。

 山口県最大の前方後円墳・白鳥古墳が海に臨んでいる平生の佐賀漁港からの出港の朝、「海王」に初めて帆柱が立った。「海王」の基本設計者である松木哲・日本海事史学会副会長(神戸商船大学名誉教授)によると「この時代の船には帆はなかった」という。細長い準構造船の不安定さが帆走に向かないことなどが理由だ。だが、九州の装飾古墳の壁画や継体大王陵・今城塚古墳の出土埴輪の船の絵には帆柱のようなものが描かれていて考古学者は「帆はあった」という。海事史と考古学が呉越同舟の「海王」、とにかく試してみようと帆柱と帆を積んできた。

 昨日の苦い経験から、「海王」に日よけの天幕を張り、「海王」が「有明」を曳いて出港、そのままゆっくり1時間漕ぐ。上関大橋通航は曳航隊形を取ったが、橋をくぐり終えたところで大きな貨物船と行き合い「実験航海隊形でノロノロ通っていたら危なかったかもしれない」と保安庁お墨付きの安全隊形に感謝。

 さて、帆走をどこで試すか。ヨットのようにキールなどなく船底が平らの古代船は横風に弱い。下川隊長によると「後方60°の範囲からの風でないと危険」なのだ。強い風を受けて突っ走りすぎても、操船不能となってこれも危険。海況を見極めながら進んでちょうど航路南側に平郡島を見る海域に達したとき、島影となって風が弱まった。そこで帆を張る。指導はヨット歴30年の「風の旅人」大橋船長。風は南南西2ⅿ。するする上がった帆が少しふくらんで、「海王」がゆっくりと動き出す。指揮船を伴走させて計ると、0.4ノットの逆潮で速度は1.7ノット。潮を割り引くと2.1ノット出ていることになる。「こりゃあ、走るばい。この船はよか船たい」。ビール好きの大橋船長は今にも祝杯をあげたそうに上機嫌だ。帆柱の上に乗った木の鳥飾り(古代の守護霊鳥)も、しっかりと海と空を見渡している。

 45分帆走し、直進距離で1.5マイルほど進んだところで東の空から黒雲が近づいてきた。「雲から風が吹き出して逆風になるかもしれない」。指揮船の舵を握っていた水産大学校OB・酒井健一さんの一言でただちに帆走中止。「海王」を指揮船に付け、帆走クルーが上がってきたところでにわかに東風が吹き出した。そのまま帆走を続けていると帆が強い風でふくらんで下ろせず、風にほんろうされることになっていただろう。

 360°を見渡しての一瞬の判断。海ではそれが必要だ。だが、昨日までの地獄レースから一転、雲の合間に「風の天国」がかいま見えた日であった。

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