8月4日(9時30分・大島港出港、17時10分・門司港入港)

大王のひつぎ実験航海事業

航海日誌

8月4日(9時30分・大島港出港、17時10分・門司港入港)

 天気晴朗なれど波高し、というのはまさにこのこと。宗像の大島港を出て鐘崎沖にかかると急に海がざわめいて、視認で一面1.5~1.7m前後の波。この海域は古代から海難の多い所で、現代船はその波を蹴立てて進むが古代船と石棺積載丸太船は大揺れ。特にピッチングが激しく「有明」を曳航している指揮船・紺碧から木蓋をしていない中央部分に鎮座する石棺蓋が見えるほどに波で船が前後に立ち上がる。

 丸太船は建造者の藤田さんが模型実験をして水船になっても沈まないように出来ており、また仮に波ででんぐり返しになっても石棺が海底に沈んでいかないように石棺を船底の木枠に締め帯で固定するようになっている。だが、岸壁公開続きで締め帯をいちいち外して締め直すのが面倒なので締めないまま出港していた。まさに油断大敵。東シナ海や玄界灘の荒波を想定して造った丸太船はこの程度の波ではでんぐり返らないが、石棺が大波の揺れで木枠からずり出ないか気がきではない。波でへさきが持ち上げられ、そして鞆が高く上がるたびに「神様、藤田様、仏様」と祈るばかり・・・。航路を海岸よりに変え岩屋沖でようやくいくらか静まってくれた。「ちはやぶる鐘の岬をすぎるとも我は忘れじ志賀の皇神(すめがみ)」(万葉集)。まさにその心境だ。

 ところが今度は、やはり岸壁公開のため例の石田カバーを外したままの「火の国」(こちらは締め帯はしていた)の青天井の船上から波がざんぶざんぶと入ったため中は「床上30㎝」、つまり船底からは50㎝ほどの浸水状態。そこで曳航していた母船・平成2号の石田船長が数人引き連れて丸太船に乗り移り、えっさえっさとアカ汲み。「有明」にも水産大学校水泳部出身がご自慢の長田一等航海士が義経の八艘飛びよろしく飛び乗って石棺を点検。木枠にこもをかませた石棺は微動だにしておらず心配は杞憂だったが、クールな一等航海士はついでに「有明」に置いていた吸水ポンプで10㎝ほどのアカを吸い出す。平成は人力、長田義経は動力と、関門海峡を前にとんだアカ汲み源平合戦を繰り広げることに。

 だが冗談を言っている場合ではない。海上保安庁から曳航隊形での通峡を指導されている関門海峡・門司港の着岸地レトロ岸壁の跳ね橋が最後に上がるのは17時からの20分間。波とアカ汲みでロスして実験航海どころではなくなり、源平合戦もほどほどに門司港へと急ぎ、どうにか間に合った。

 歓迎の人が鈴なりなのはうれしかったが、狭いレトロ岸壁に丸太船を現代船に横抱きにして苦労して接岸しようとしていると急に歓迎の放水が桟橋から発射されて水しぶきを頭から浴びることに。今日はほんとに災難でした。

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