第四回 継体大王と推古女帝(後編)

第四部 古代船団が残した足跡

日本最初の女帝・推古天皇

推古天皇の初陵の写真

 最近、女性天皇の是非を巡る論議が活発ですが、みなさんは歴史上の女性天皇を挙げるとすれば、誰を思い浮かべますか?

 おそらく「推古天皇」と答える人が最も多いのではないでしょうか。推古天皇は有力豪族・蘇我氏の一族で、今城塚古墳(大阪府高槻市)の馬門石石棺に葬られた継体大王(天皇)は祖父にあたります。

 西暦592年~628年まで在位した日本最初の女帝で、甥の聖徳太子を※摂政とし、※冠位十二階や※十七条の憲法の制定など統治体制の強化に努めました。その一方で、母親としての顔も持ち、息子の竹田皇子を寵愛したと伝えられています。

 その推古天皇の初陵(最初の墓。後に大阪府太子町の現・推古陵に移葬)が見つかったのは平成12年のこと。発見当時、新聞・テレビなどで大きく報道されました。

大発見!推古天皇の初陵・植山古墳

植山古墳の写真

 平成12年の夏。奈良県橿原市教育委員会の濱口和弘さんや作業員の人達は、小高い丘の上に約1400年前に築かれた古墳を調査していました。

 その古墳の名は植山古墳。大きさは東西40m、南北32m、高さ6m。遺体が納められた石室が並ぶ「双室墳」と呼ばれる全国的にも珍しい古墳です。

 土に埋もれた石室をスコップで掘っていたところ、「カツン」と石に当たった音がしました。さらに掘り進めると、見た事もないピンク色の巨大な石棺の蓋が姿を現し、濱口さん達は仰天しました。すぐに馬門石の石棺と判明し、さらに古墳が造られた時期や立地、日本最古の歴史書『日本書紀』の記述から、植山古墳が推古天皇と竹田皇子の墓であることがわかったのです。

推古天皇と聖徳太子、宇土との接点

礼拝石の写真

 593年に聖徳太子が建立した四天王寺(大阪市天王寺区)の南大門近くに、たたみ1畳ほどの「礼拝石」があります。なんとこれも馬門石製なのです。推古天皇と聖徳太子、この両者と宇土の接点は、どこにあるのでしょうか?

 この謎を解くカギは、750年に記された次の一文にありそうです。「…肥後国宇土郡大宅郷戸主額田君得万呂…」(『正倉院丹裹文書』)。

 この文書から古代宇土の行政単位のひとつ「大宅郷」(範囲は不明)に住む、額田部君得万呂という人物がいたことがわかります。実は、推古が天皇に即位する前の名は「額田部皇女」。つまり、宇土に推古天皇に関連する領地があり、その子孫が大宅郷の戸主として宇土に存在したと読めます。四天王寺に馬門石製の礼拝石があることも、聖徳太子が推古天皇の甥にあたることから納得できます。

 古代日本を代表する人物と宇土とのつながり。この驚くべき1400年前の接点は、つい最近わかってきたことです。近い将来、私達がまだ知らない大発見が待ち受けているかもしれませんね。次回の6月15日号は第5部「古代と海への挑戦」。いよいよ目前に迫った実験航海。これまでの取り組みを前編と後編に分けて振り返ります。

※摂政:天皇に代わって政務を行う。 ※冠位十二階:冠の色によって位の高低を表した制度。 ※十七条の憲法:日本最初の憲法。


 


 

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