第四部 古代船団が残した足跡
第三回 継体大王と推古女帝(前編)
宇土と高槻、その歴史的接点
大阪府高槻市。人口35万人の活気溢れる大阪の中核市です。実はこの高槻、500㎞も離れた宇土と歴史的に不思議な繋がりがあるのです。
戦国時代、高槻城主だったキリシタン大名・高山右近は、豊臣秀吉のキリシタン追放令によって淡路島(兵庫県)や小豆島(香川県)に逃れました。この島々は小西行長が宇土に来る前に治めた領地であり、行長は右近を手厚く保護しました。また、行長の死後、その重臣だったキリシタンの内藤如安は、右近の斡旋で共に加賀(石川県)の前田家に仕えましたが、徳川家康が発した禁教令で右近と共にマニラ(フィリピン)に追放され、この地で亡くなりました。
それから約400年後の平成10年、継体大王の墓である高槻市の今城塚古墳で、馬門石の石棺が見つかりました。
古代史研究に一石を投じるこの大発見は、同時に宇土と高槻の接点が1500年前までさかのぼることを明らかにしたのでした。
継体大王のひつぎを発見
継体大王は西暦507年から531年に在位した大王(後の天皇)です。日本最古の歴史書である「日本書紀」によると越前(福井県)出身で、推古女帝の祖父にあたります。
在位中、古代史上最大の反乱と言われる筑紫君磐井の乱が起こるなど、激動の時代を生き抜いた人物です。葬られた今城塚古墳は全長190mの巨大な前方後円墳で、大王が保持した絶大な権力を象徴しています。
平成10年1月のある日、この古墳の上に市教育委員会の髙木恭二さんの姿がありました。奈良の古墳見学のついでに立ち寄ったのです。古墳の上から暮れなずむ風景を見ていた髙木さんは、足元の土の中からピンク色の石片が顔を覗かせているのに気付きました。
長年、文化財の調査に携わった髙木さんは一目で分かりました。「馬門石だ!」胸の高鳴りを押さえつつ石を拾い上げて見ると、内面を真っ赤に塗られた石棺の蓋の破片でした。「大王のひつぎ」が馬門石で造られていることが明らかになった、まさに歴史的瞬間でした。
なぜ馬門石が使われた?
大王や有力豪族の埋葬施設として近畿地方に運ばれた石棺の産地は、面白いことに時期によって変化するという特徴があります。
今から1550年から1600年前は兵庫県高砂市に産する竜山石で造られ、その後、一時的に菊地川下流域(玉名市)の阿蘇溶結凝灰岩、続いて1450年から1500年前に馬門石が用いられました。
いわば「棺制」といえるような制度、つまり約束事が存在したことを示唆します。この棺制に従って、継体大王や大王を支えた有力豪族が馬門石の棺に葬られたと考えられたと考えられます。どこの産地の棺を用いるかは、大王の交替やヤマト政権を構成する有力豪族の政変などを要因として変化したようです。
次回は「継体大王と推古女帝」の後編。推古女帝と摂政として支えた聖徳太子はあまりにも有名ですが、近年、この二人と馬門石のつながりが注目を集めています。古代日本を代表する人物と馬門石、どのような背景で結びつくのでしょうか?