第四部 古代船団が残した足跡
第二回 瀬戸内に眠る熊本の古代人
造山古墳と千足古墳
日本で4番目に大きい古墳が岡山市にあります。その名は造山古墳。全長約350m、高さ約31mの前方後円墳で、古代吉備(現在の岡山県から広島県東部)に勢力を置き、一時はヤマト政権の大王(後の天皇)を凌ぐほどの勢いがあった大豪族・吉備氏の墓です。山塊と形容すべきその姿は、吉備氏絶頂期の巨大モニュメントとして1500年経た現在も威容を誇っています。
古墳の周囲を見渡すと、「陪冢(ばいちょう)」と呼ばれる近親者ないし生前関係のあった人が埋葬された古墳が6つあり、そのうちのひとつに千足古墳と呼ばれ全長74mの前方後円墳があります。
実はこの古墳、宇土にゆかりがあった人物の墓かもしれないのです。
被葬者は宇土の古代人?
遺体が納められた千足古墳の石室は、四壁に沿って「石障」と呼ばれる板石を立て並べえた構造で、肥後(熊本県)に分布が集中する特異なものです。ヤンボシ塚古墳も同じ種類の石室で、両者は大変よく似ています。
驚くべきことに、この石障は吉備から約500㎞も離れた天草から宇土半島に産する通称・天草砂岩が使われており、石障に刻み込まれた直弧文と呼ばれる幾何学文様は、この地域の豪族たちが好んで用いた装飾文様なのです。
おそらく埋葬された人物は、吉備氏を支えた有力者で、宇土の出身者もしくは宇土と何らかの関係があった古代人の可能性が高いといえます。
造山古墳の墳丘上に灰黒色の馬門石石棺があることも、両地域の密接な繋がりを想起させます。
瀬戸内沿岸に分布する肥後系古墳の謎
瀬戸内海沿岸には、千足古墳以外にも肥後的な特徴がある古墳が点在しています。これらの古墳の存在は、両地域の豪族達の間に活発な交流、具体的には婚姻関係があったことを如実に示しています。
石棺の輸送を例にすると、古代は夜間航行の技術が確立されておらず、また物資の確保のため毎日どこかの港に停泊する必要があります。
これが端緒になって寄港先の豪族との間に友好関係が生まれ、同盟や婚姻関係にまで発展する場合もあったことでしょう。
肥後から嫁いだ女性が亡くなると、故郷のお墓のスタイルにならって肥後系の古墳に葬られたと考えられます。
1500年前、現代人の創造を超えるスケールで展開した地域間交流の実態をこれらの古墳や石棺は私達へ雄弁に語りかけてくるかのようです。
次回の5月1日号は「継体大王と推古女帝」。
どのような経緯で馬門石石棺が「大王のひつぎ」として採用されたのか、この謎について考えてみたいと思います。