第一回 海を渡った熊本の石棺

第四部 古代船団が残した足跡

第一回 海を渡った熊本の石棺

交通の大動脈・瀬戸内海

 日本のエーゲ海とも称えられる瀬戸内海。

 紺碧の水面から大小様々な島々が顔をのぞかせ、その美しい景観は今も昔も人々を魅了し続けています。

 江戸時代、西日本各地と江戸や大坂を結ぶ主要航路として大変な賑わいをみせ、飛鳥時代から平安時代にかけて派遣された遣唐使(630~894年)は、まず瀬戸内海を通って遥か2,500㎞先の唐の都・長安を目指しました。

 古墳時代も同様で、宇土から馬門石製の石棺が岡山や近畿地方に運ばれ、陶邑窯跡群(大阪府堺市ほか)で焼かれた須恵器と呼ばれる硬質の土器が西日本各地の遺跡で大量に出土しています。

 古来より「交通の大動脈」としてその存在は重要であり、瀬戸内海抜きにして日本の歴史を語ることはできないといえます。

海を渡った熊本の石棺 説明地図画像 
 
熊本の「北」と「南」の石棺

 ところで、運ばれた石棺のなかには、馬門石製のものとは色も形も異なる同じ凝灰岩製の石棺があります。実はこれも熊本から海を渡った石棺なのです。

 古墳時代の熊本は石棺の一大生産地でした。宇土半島産(馬門産)をはじめ、県北の菊池川下流域(玉名市付近)や県南の氷川下流域(八代郡竜北町付近)でも石工達が懸命にノミを振るって棺を造り上げ、供給先である有力豪族の古墳を目指しました。生まれ故郷の熊本を離れて異郷の地へと運ばれた石棺は、1500年前のこんな昔話を私達に語りかけるかのようです。

3種の石棺の特徴

石棺の写真 この県内3地域で造られた石棺は、地域ごとに独特の特徴があります。

 菊池川下流域の石棺は蓋と身の短辺に突起が付くのを原則とし、馬門産は蓋の長辺に2箇所ずつ突起が付くのを基本とします。

 氷川下流域の石棺は縄を通す穴が空けられた突起があります。この特徴から熊本のどこで造られたのか形をみれば比較的容易に識別できるのです。

 面白いことに大王(天皇)クラスの巨大古墳の棺は、最初は兵庫県高砂市付近に産する竜山石で造られ、つぎに馬門産と時期によって変化しました。このことは大王の交替や政変などを要因として、中央と地方豪族との連携ネットワークが変化していることの反映であると考えられています。

 次回の4月15日号は「瀬戸内に眠る熊本の古代人」。瀬戸内海沿岸に残された、熊本の古墳と共通する特徴をもつ古墳を紹介します。




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