第三部 馬門石にまつわる歴史と人々
第三回 馬門石石棺、海を渡る
「約7tの馬門石石棺を大阪まで運ぶ」
大型トラックや動力船を使えばさほど難しいことではないように思えます。
しかし、このような文明の利器を使わず、人の力と風や潮流などの自然の力だけを利用して海路800㎞を運ぶとなれば…その労力は現代に生きる私達には想像もつきません。この一見不可能と思われる事を、1500年前の古墳時代、バイタリティ溢れる宇土の古代人は幾多の困難を乗り越えて見事に成功させていたのです。
石棺輸送船団が行く
石棺の出港地は、現在の網津町字本村や平原(あじさいの湯付近)と考えられています。石棺は満ち潮の浮力を利用して修羅から巨大イカダ・台船に載せかえられ、その台船を古代船が曳く方法で運ばれたとする説が有力です。古代船には15人前後の屈強な漕ぎ手が乗り込み、海岸の地形を見ながら航海する原始的な方法で目的地を目指しました。
航海は太陽が出ている早朝から夕方までなので、毎日どこかの港に停泊する必要があります。その際、停泊地に勢力をもつ豪族と友好関係が生まれたことでしょう。それを証明するかのように、瀬戸内海沿岸に熊本系の古墳が点在しています。約40日の大航海の末、ようやく船団は大阪湾沿岸に到着しました。
途中、悪天候や波が高いために何日も出航できなかったり、予期せぬハプニングが発生するなど困難を極めた航海だったと容易に想像できます。
なぜ石棺は運ばれたのか
ヤマト朝廷の有力豪族の特注品・馬門石石棺を輸送するという行為は、いくつかの理由があって行われたと考古学者たちは推測しています。その大きな理由のひとつとして、巨大石棺の輸送を沿岸各地の人々に見せつけることで、自らが有する絶大な権力を誇示したのではと考えています。
石棺が造られた宇土は当時の日本で最果ての地でした。
継体大王のひつぎを運ぶ堂々たる船団を見た人々は、「私達が見知らない場所で造られたピンク色に輝く石棺を、大王様は自分の墓に使うために運ばせている。何とすごい事をしているのだ」と感じたに違いありません。
その「すごい事」の実働部隊こそ、優れた海運力を持っていた宇土の古代人でした。 今年夏の実験航海では、この夢のような光景を1500年ぶりに現代へ甦らせます。
次回のお話は「轟泉水道の大改修」皆さんは、宇土市に現存する日本最古の上水道があることをご存知ですか?今から230年以上前の大工事、馬門石製水道管への改修にまつわるエピソードをご紹介します。