第三部 馬門石にまつわる歴史と人々
第二回 古代人、馬門石を加工する
馬門石で造られた製品は、現代に生きる私達に何を語りかけるのでしょうか?馬門石が使われ始めた古墳時代(今から1400~1600年前)にスポットをあててお話します。
最初の発見
昭和60年(1985年)2月、寒風が吹くなか宇土市教育委員会の髙木恭二さんや木下洋介さんらはヤンボシ塚古墳(網田町)の発掘調査に取り組んでいました。玄室と呼ばれる遺体を納める石室を掘っていた時、ピンク色に発色した馬門石の破片を発見しました。「古墳時代にも馬門石が使われていたとは・・・」髙木さんらは大変驚きました。なぜかといえば、当時、馬門石の利用は江戸時代からと考えられていたからです。
この発見によって馬門石の利用が一気に1000年以上もさかのぼることがわかったのです。
謎の石工集団
宇土周辺や近畿地方には石棺や古墳の石材など、数々の製品が残されていますが、石工の活動については多くの謎に包まれています。最近の研究によると、馬門の石工集団と網引の石工集団がいたと指摘されています。
当時は、まだ露頭から石を取り出す技術が開発されていなかったので、露頭周辺にゴロゴロ転がっていた巨大な石が原石になりました。手斧などの道具類を駆使して加工を行い、運搬の労力を軽減するため石切場でほぼ完成品に仕上げられたようです。
1400年前に造られた奈良県植山古墳の馬門石製石棺の表面には、びっしりと加工した痕跡が残されています。最近、石を加工した作業場の跡が発掘調査で見つかっており、製品を加工する際に出た大量の石屑や土器が出土しています。発掘現場に立つと、汗だくになりながらノミを振るう屈強な石工達の息づかいが今にも聞こえてくるような感じがします。
石切り場から港へ
石切場から港への製品運搬は、Y字形のソリ・修羅が使われました。当時は網津町字本村や平原(あじさいの湯周辺)まで海が迫っており、その付近に港があったと考えられていますが、まだ場所は特定されていません。この「幻の港」へ重さ約7トンの石棺を運ぶのは大変な労力であり、100名以上の人々が港を目指して修羅を曳いたと考えられています。 昨年行われた修羅曳きセレモニーのように、お祭りのようなにぎやかさだったことでしょう。
次号は「馬門石石棺、海を渡る」です。