第一回「中世の宇土城主・宇土氏と名和氏」

第一回「中世の宇土城主・宇土氏と名和氏」

2つある「宇土城」

 宇土市には、「古い宇土城」と「新しい宇土城」があるのをご存じですか?「古い宇土城」は、西岡台(神馬町)と呼ばれる西岡神宮裏手の小高い丘にあります。室町時代から安土桃山時代(14世紀前半から16世紀末頃)にかけて使われた城で、宇土氏と名和氏が城主として活躍しました。一方、「新しい宇土城」は、キリシタン大名・小西行長が16世紀末頃に築いた城で、現在の城山公園(古城町)が本丸にあたります。

 この2つの宇土城を区別するため、古い方は「中世宇土城跡」や「宇土城跡(西岡台)」、新しい方は「近世宇土城跡」や「宇土城跡(城山)」などと呼ばれています。

最初の宇土城主・宇土氏

復元された宇土城跡(西岡台)の城門と柵 


 
 最初の宇土城主は宇土氏で、菊池氏の一族と伝えられています。当時、宇土庄の庄官として、年貢の取り立てや治安維持などを行っていたと考えられます。

 宇土氏については、記録があまり残っていないため詳しいことはわかりませんが、文亀元年(1501)、宇土為光は肥後国守護※だった菊池能運から守護職を奪っており、かなりの力をもった領主だったようです。しかし、文亀3年(1503)に菊池軍と争って破れ、宇土氏は滅亡してしまいました。宇城市不知火町大見の山中には、為光の墓と伝えられる石塔があります。

 ※国単位で設置された軍事指揮官・行政官

名和氏、八代から宇土へ

 宇土氏滅亡後、宇土城主となったのは名和氏です。元々は現在の鳥取県西部を治めた有力武家でしたが、正平13年(1358)武功により得ていた八代に移り住みました。以後、八代を中心として勢力を伸ばしましたが、文亀4年(1504)名和顕忠は居城の古麓城(八代市)を人吉の相良氏に攻められて北へ逃れた後、同年、宇土城に入城しました。

 以後、名和氏は80年余り宇土を治めましたが、歴代当主のなかでもよく知られているのが16世紀後半から末頃に活躍した名和顕孝です。顕孝は、教科書にも載るほど著名な絵巻物「蒙古襲来絵詞」を所有していましたが、顕孝の娘が大矢野城主・大矢野種基と結婚することになり、その嫁入り道具としてこの絵巻物を贈っています。また、餅代の代わりに小袖を差し出す話でおなじみの民話「孝行娘」に登場する殿様としても有名です。

 顕孝は川尻(熊本市)を領有するなど勢力を拡大しましたが、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州平定によって宇土城を開城。翌年には、小西行長が肥後南半を治める領主として宇土城に入るとともに、秀吉の命令で顕孝は筑前(福岡県)の小早川氏の家臣になりました。

整備が進む宇土城跡(西岡台)

宇土城址の位置画像 


 


 宇土城跡周辺地図  市では、宇土城跡(西岡台)の発掘調査で見つかった建物跡・堀跡・門跡などの整備を進めています。城の中心部にあたる千畳敷と呼ばれる高台とその周辺の整備を完了しており、年間を通じて多くの市民や歴史愛好家が訪れています。

 現在、城の西側にある三城地区の発掘調査と整備工事を進めており、建物跡や城を守る土塁などの整備を完了しています。現地を訪れて、往時の宇土を治めた領主たちに想いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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担当部署:宇土市役所 文化課

電話番号:0964-23-0156