第三回「熊本の関ヶ原~宇土城攻防戦~」

第三回「熊本の関ヶ原~宇土城攻防戦~」

 行長、「関ヶ原」で敗北

 慶長5年(1600)9月15日、石田三成率いる西軍、徳川家康率いる東軍に分かれ、天下分け目の関ヶ原合戦が行われました。

 西軍8万のうち、小西軍は総勢6,900人。西軍の主力部隊でした。西軍は東軍の軍勢を上回っていましたが、有名な小早川秀秋の裏切りが西軍に致命的な打撃を与え、持ちこたえていた小西軍もやがて崩れ去りました。

 逃げ落ちた行長は、数日後、滋賀県と岐阜県の境にある伊吹山山中で土地の庄屋に捕らえられ、三成らとともに大阪や堺を引きまわされた末、京都の六条河原で処刑されました。享年42歳。キリシタンだった行長の遺体は、教会に引き取られたとされていますが、どこに埋葬されたのかわかっていません。

 宇土を中心とし、九州全体の支配まで視野に入れていたと想像される行長の夢は、関ヶ原の敗戦により志半ばで途絶えたのでした。

ライバル・清正の動向

小西行長陣跡(岐阜県関ヶ原町)画像 


 
 一方、東軍の加藤清正は、どのような行動をとったのでしょうか。意外なことに、清正は関ヶ原合戦に参加しておらず、黒田如水(東軍)が大友義統(西軍)から攻撃を受けたことから、救援のため豊後(大分県)に向かっていました。九州でも三成側の西軍と家康側の東軍に分かれた戦いが行われていたのです。


 しかし、進軍途中、黒田軍の勝利を知ると玖珠(大分県玖珠町)から兵を引き返し、次の攻撃目標を関ヶ原合戦で行長が不在だった宇土城に定めました。

 実は、関ヶ原合戦のほぼ40日前、清正は家康から肥後や筑後(福岡県南部)を実力で軍事占領することを条件に両国の領有保障、つまり肥後と筑後を治めてよいとの約束を取り付けていたのです。

 加藤軍の小西領内への侵攻は、清正が関ヶ原の結末を知る10日も前のことでした。

宇土城攻防戦

加藤軍による宇土城攻め画像 


 
 熊本方面から進軍した加藤軍は、石ノ瀬城( 石小路町)を突破後、本町・新町などの城下町を焼き払い、宇土城に迫りました。清正自身は茶磨山(松山町)に本陣を置き、宇土城の南回りに兵を進め、かつて城があった西岳(西岡台、神馬町)から宇土城へ激しい攻撃を加えました。


 籠城した小西軍の兵は、少ないながらもよく戦いました。宇土城本丸北側の運河を利用して船で攻めてきた加藤水軍を、城内からの砲撃で撃沈したと伝えられています。

 しかし、開戦から1カ月後、留守を預かっていた行長の弟・小西隼人は、ついに宇土城を開城しました。隼人は切腹、残る家臣は助命され、行長の領地は清正に引き継がれることになったのです。

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