第四回(最終回)「加藤清正の宇土城改修、そして廃城へ」

第四回(最終回)「加藤清正の宇土城改修、そして廃城へ」

清正による宇土城改修

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、肥後54万石の領主となった加藤清正は自身の隠居所とするため、小西行長が築城した宇土城を改修しました。

 「慶長十三年」(1608)年の銘がある瓦が宇土城跡で出土していることから、この頃には改修に着手していたと考えられます。当時、豪華な建物が存在したことは慶長年間の絵図や発掘調査で大量に出土した瓦から想像することができます。

 しかし、慶長16年(1611)清正は宇土城に隠居することなく、熊本で亡くなりました。享年50歳でした。

幕命による破却

 清正の死の翌年、幕府の命令で宇土城は破却(城を壊すこと)されて廃城となり、さらに寛永14年(1637)の天草・島原の乱後にも徹底的に破壊されました。最初の破却は所々に石垣が見え、堀の形も残っていましたが、2度目の破却では石垣は大きく崩され堀は大規模に埋められたと伝えられています。

 では、どうして乱後、宇土城が徹底的な破壊を受けたのでしょうか。その理由として、宇土は行長の旧領であり、幕府にとってはキリシタンの影がちらつく不穏な地とみなされたと考えられます。原城(長崎県南島原市)のように反乱の拠点となるのを恐れたのかもしれません。

 実際、一揆軍の総大将だった天草四郎の父・益田甚兵衛は行長の家臣で、宇土の江部(現在の旭町)に住んでおり、自身や家族もみんなキリシタンでした。

現代に姿を現した"宇土城"(西岡台)

発掘調査で姿を現した石垣画像 


 
 かつては肥後を代表する城だった宇土城は、江戸時代の破却以降、現代まで畑や墓地、荒れ地となり、変わり果てた姿になってしまいました。しかし、昭和50年代に行われた本丸の発掘調査で、建物跡や門跡、石垣などの往時の姿を示す城の施設が確認され、高価な陶磁器なども出土しました。


 調査の大きな成果として、「小西時代」と「加藤時代」の2時期にわたる遺構が発見されたことがあげられます。清正による宇土城改修は、本丸を約1.5mも盛土し、小西時代の城郭施設を覆い尽くす大規模な工事だったことが判明しました。

宇土城跡の本丸(城山公園)画像 


 
 なお、宇土城の天守閣が移築されたと伝えられる熊本城の宇土櫓は、近年の研究ではその可能性は低く、熊本城大天守の隣にそびえる小天守が宇土城の天守閣だったとする説が有力となっています。残念ながら、熊本城天守閣は明治10年(1877)の西南戦争で焼失してしまいますが、昭和35年(1960)に再建されました。


 強者たちの栄枯盛衰の舞台となった宇土城。現在、本丸は公園化され、その片隅に西の方角を見つめる行長の銅像が静かにたたずんでいます。

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