小西行長の最期

小西行長の最期

小西行長の墓の画像 関ヶ原での敗北後、行長は伊吹山(岐阜県)山中に逃れましたが、落人狩りを指揮していた林蔵主と行き合い、家康のもとに自らを連行し褒美をもらうようにと求め、捕らえさせました。行長はキリシタンであったため自害せず、とらえられることを選んだといわれています。

 行長が捕らえられた2日後に三成が、その翌日には安国寺恵瓊が捕らえられます。3人は9月29日に大坂および堺の町を引き廻され、10月1日、京都の六条河原にて処刑された後、首は三条河原で晒されました。

 イエズス会側の史料によると、行長の遺骸は教会に引き取られたようですが、どこに埋葬されたのかはわかっていません。

 その後、行長は西軍に与したこと、キリシタン大名であったことなどから、国内ではあまり正当な評価を受けませんでした。しかし、行長が亡くなった7年後の1607年、イタリアのジェノバで行長を主人公とする音楽劇が作られ、1640年のフランス製日本地図には宇土、八代の地名がみられます。これは小西行長の影響によるものと考えられ、ヨーロッパでは信仰に篤い、忠義を重んじる武将として知られており、日本とは正反対の評価をされていました。

三条大橋・三条河原の画像 


 


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