関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い

布陣図の画像 行長は、朝鮮半島から日本軍の撤退を完了させた後、政権の中枢に復帰し、豊臣秀吉に代わる豊臣政権の命令者となった徳川家康の指示で動くようになります。慶長4年(1599)に勃発した島津氏内部の権力闘争である庄内の乱では、庄内の状況を把握し、家康に代わって近隣大名に出陣を求める任務を寺内正成とともに与えられており、家康から派遣された上使といえます。

 しかし、慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の戦いでは、行長は家康と敵対する西軍の首謀者の一人でした。行長が西軍に与した理由は、朝鮮出兵をきっかけに強く結びついた三成や、以前仕えた宇喜多氏への義理、加藤清正との対立などが考えられます。

 同年9月15日、東西両軍は関ヶ原(岐阜県)において激突します。行長の軍勢は朝鮮出兵での家臣団の消耗から立ち直っておらず、関ヶ原の軍勢も、国許に残した軍勢も意外なほど小規模でした。それで4,000人の援軍が行長の軍勢にだけつけられています。これはおそらく三成の配慮によるものと思われます。

 はじめ戦況は一進一退しますが、西軍の三成・行長・宇喜多・大谷の軍勢の他は、形勢を傍観して鳴りを潜めていました。そして小早川秀秋の裏切りがまず大谷吉継の軍に致命的な打撃を与えると、行長、宇喜多、次いで三成の部隊が相次いで崩れ去り、戦は東軍の勝利に終わって、家康の覇権が確立しました。

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