朝鮮出兵

朝鮮出兵

朝鮮出兵

 文禄元年(1592)に始まった文禄の役では、対馬領主・宗義智とともに第一軍として朝鮮へ出陣しました。行長たちの軍は漢城(現ソウル)を陥落するなどの活躍をみせますが、その後戦況はこう着しました。その間、行長・石田光成らが中心となり、和平交渉が進められます。

 朝鮮出兵の際、日本軍は朝鮮半島南岸にたくさんの日本型の城郭を築きました。これを倭城といい、行長も熊川倭城を築城しています。

 一旦は和平が成立しますが、すぐに決裂してしまい、慶長2年(1597)、再度朝鮮への進攻が開始されます。これを慶長の役といい、行長は加藤清正と共に先鋒に任命され、南原城攻略などの活躍をみせますが、慶長3年(1598)、秀吉の死によって戦いは終結しました。

和議交渉

 行長は、朝鮮・明との交渉役に任命されます。朝鮮出兵が始まる以前から朝鮮とは協議してきましたが、豊臣秀吉の意向に沿うことはできず、ついにしびれを切らした秀吉が朝鮮へ渡海を決断し、文禄の役が始まります。行長は破竹の進撃を果たしますが、文禄2年(1593)1月5日、朝鮮・明連合軍の攻撃により、大敗北を喫します。その後日本軍の朝鮮攻略は膠着し、兵糧不足が表面化する中で、明との和議交渉が進められました。

 さて、和議交渉のなかで明側から秀吉の降伏文書が要求されます。しかし、秀吉がそれを容認するはずもなく、結局行長と明の使者・沈惟敬が協議して秀吉の降伏文書を偽作しました。これは事態をできるだけはやく解決するための行為と考えられ、これ以上戦が長引き、豊臣政権が疲弊することを防ごうと行長が考えたからではないでしょうか。

 文禄5年(1596)9月、明使節が大坂城の秀吉のもとにやってきます。秀吉はこれを明が秀吉に和平を請う使者と考えていました。そのため、明の使者が「汝を国王と為す」といったことで秀吉が激怒し、交渉の主導者であった行長の首を斬ろうとした、と一般的にはいわれています。しかし、実際はそうではありませんでした。この謁見自体は無事終了したのです。事前にこういう形で和議交渉をしているということを、行長ははっきりと秀吉に報告・連絡しています。行長は秀吉の意向をふまえて明との交渉をしていました。秀吉を怒らせたのは、自力で手に入れた朝鮮半島の南半分を手放し、朝鮮から日本軍を撤退せよと明側に迫られたためです。そして結局、朝鮮再出兵となってしまいます。

熊川倭城

熊川倭城 石垣の画像

 行長は熊川を拠点のひとつにしました。熊川という所は熊川邑城という邑(集落・町)を城壁で囲んだ朝鮮側の城があった所です。しかし、行長はこれを使わず、ここに隣接する海に飛び出したような丘陵に熊川倭城を築きました。この地は日本との交易が非常に盛んに行われており、そういう意味で水運の便利な場所でした。そこに行長が城を築けば、当然多くの船が停泊できる良好な港湾を備えることになります。

 熊川倭城は、山頂に日本でいえば本丸や二の丸のような区画があって、そこから防御のために石垣を山の下にずっとバリケードのようにのばしています。このような石垣の築き方は、日本国内では見られず、朝鮮出兵の際に朝鮮に渡り、その朝鮮で大名たちが造った城では若干このような防御施設を使っている事例はありますが、基本的にはこれら倭城で使われています。つまり、朝鮮に攻め込んだその戦いの中で、このような特殊な技術が発達していったということです。

 独立した丘陵の山頂から山麓にかけてバリケードのように石垣がのびており、その石垣で囲まれた中に行長が館を構えて住んでいたと思われます。山の上から下まで続いている石垣は、塀のように山頂と山麓をつないで、敵の侵入を防ぐ役割を果たしていました。現在でも城壁や本丸、二の丸のような区画、天守台が残っています。おそらくこの天守台の上には、何階建てかの天守が建っていたと考えられます。

 熊川は、韓国キリスト教発祥の地とされています。これは行長が熊川倭城に宣教師のセスペデスを招き、そこで彼が活動していたためで、韓国に初めてキリスト教が伝わった発祥の地、あるいは発祥地のひとつといわれています。

順天倭城

順天倭城 城壁の画像

 順天という所も、元々は町を囲んだ朝鮮側の城があった所です。ところが行長はここでも朝鮮側の城は利用しないで、この海に突き出た所に新たに城を築いています。

 順天倭城は、城壁が五重にあって、外側を落としてもまだ内側に城があるので、これは絶対に落すことができないという朝鮮側の記録などが残っています。また、5階建てくらいの規模をもった天守が築かれていたようです。

 現在でも城外側と城内側、そして中央に水堀の跡がしっかりと残っており、行長が築いた城がどういうものだったかということが、歩いてわかるような、良好な状態で残っています。絵画資料によると、石垣が非常に多く使われており、石垣の上に築地塀があって、その塀には鉄砲を撃つための穴がたくさん開いています。城門も単なる門ではなく、門の上に建物がありその下に門を開くいわゆる櫓門の構造になっています。さらに小屋や蔵なども城内にはたくさんあります。当然兵士たちが生活したり、あるいは彼らの食糧などもこういった所に収められていました。従って城は非常に広く、その中にたくさんの兵士がいて、そして兵士たちが生活する空間がありました。このように、敵が攻めてきたときにも十分に守ることができる設備が備えられた本格的な城が造られていました。

文禄・慶長の役に築いた城の地図画像 


 


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