人物紹介

行長を取り巻く人々

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一族

 

表:一族について
名前洗礼名生没年詳細

父・立佐(隆佐)

ジョウシン

?-1592

堺の豪商で、史料によっては隆佐とも書かれています。天文2年(1533)頃堺に生まれ、永禄3年(1560)か ら同7年(1564)の間、京都においてキリシタンとなり、宣教師の使者となって織田信長を訪ねました。天正8年(1580)頃から羽柴(豊臣)秀吉に重 用され、同13年(1585)頃から河内・和泉両国の蔵入分代官となり、翌年には石田三成とともに堺政所に任じられました。 天正15年(1587)には九州征伐の兵糧徴収に派遣され、翌年には秀吉の代理人として南蛮船がもたらした生糸の優先買い付けのため、肥前国長崎に赴いています。 文禄の役に際し、肥前国名護屋で発病し、堺に戻り、文禄元年(1592)京都で亡くなりました。

母・クワサ

マグタレナ

?-?

関ヶ原合戦以前に亡くなったようです。これをきっかけに行長は聖堂付きの立派な墓地を設けました。

兄・如清

ベント

?-?

立佐の長男で、天正7年(1579)頃までは法華宗徒でしたが、まもなくキリシタンとなり、同16年(1588)5月10日付けのイエズス会総長宛五畿内信徒代表者の連署状に署名しています。 羽柴(豊臣)秀吉に重用され、室津や堺で要職に就いていました。立佐の死後、父の職を継承し、堺の代官になったものと考えられます。

弟・隼人

1561-1600

行長の異母弟とされ、行景、長元ともいわれます。隈庄城代を務めたようです。一説には主殿介が隈庄城代だとも。 慶長5年(1600)の加藤清正による宇土城攻では、不在の行長に代わって宇土城代として奮戦します。当時麦島城代であった小西行重に 援軍要請を行いましたが、加藤軍によって阻止されたものの、その後も善戦しました。しかし行長の敗北を聞かされ、家臣の助命と引き換えに自刃しました。

兄弟・与七郎

ルイス

?-1593

母は不詳。朝鮮出兵に際して行長とともに出陣しました。行長軍は一旦は平壌城を占拠しましたが、文禄2年(1593)正月7日、明・朝鮮連合軍の総攻撃を受けました。行長は命からがら撤退しましたが、与七郎はこの戦いで戦死しました。

姉妹

ルシア

?-?

兄弟・[主殿介]

ペドロ

?-?

母は不詳。一説によると隈庄城代を務めたとされていますが、隼人が務めたともいわれています。 天草国人一揆では、水野六左衛門(勝成)を従えて志岐城攻に参戦し、朝鮮出兵にも出陣したようです。

ジュスタ

?-?

関ヶ原合戦後、親類ともども捜索され、徳川家康は彼女らを助命したといわれています。しかしその後の消息は不明です。

妻・永俊

カタリナ

1574-1649

皆吉久右衛門(続能)の子といわれており、行長との間に妙身をもうけました。後に島津忠清のもとに身を寄せ、忠清との間に一女桂安が生まれます。桂安は島津家久の側室となり、二代藩主となる光久を生みました。 関ヶ原合戦後、大名は人質として妻子を江戸城へ送ることとなり、桂安が江戸に移る際には永俊も同行しました。しかし、江戸で永俊がキリ シタンであることが発覚し、薩摩へ帰ることになります。何度も改宗を迫られた永俊でしたが、改宗を受け入れないことから、種子島へ追放の身となり、さらに 娘の妙身、孫娘の・於鶴・満津も種子島への島送りとなってしまいました。 永俊は種子島で13年過ごし、慶安2年(1649)、75歳で亡くなりました。

息子

?-1600

関ヶ原合戦後、行長の12歳になる嫡男は騙されて大坂に送られ、輝元の命令で斬首され、その首は徳川家康のもとに送られました。しかし、家康は卑劣な行為であるとして首を受け取らなかったといわれています。

?-?

志岐城代・日比屋了荷の子である小西弥右衛門に嫁ぎましたが、弥左衛門はマカオに追放され、亡くなっています。その後の消息は不明です。

マリア

?-1605

宗義智に嫁ぎますが、関ヶ原合戦後、離縁され長崎に送られました。慶長10年(1605)、同地で亡くなりました。

娘・妙

?-1660

母は永俊。有馬式部大輔のもとへ嫁ぎ、満津が生まれ、後に薩摩へ移り、島津家家臣・喜入忠政と再婚します。忠政との間に於鶴(津留)が生まれました。 後に種子島へ島送りとなり、万治3年(1660)、同地で亡くなりました。

 

家臣

 

表:家臣について
名前洗礼名生没年詳細

小西美作守行重(木戸作右衛門 小西末郷)

ジャコベ

?-1602

小西家三家老の一人で、熱心なキリシタンでした。残りの二人については名字不詳。 当初は古麓城代でしたが、後に麦島城を築き、城代となりました。 初めは木戸作右衛門と名乗っていましたが、後に行長から姓を与えられ、小西行重と改めました。 天草国人一揆では志岐城攻めにおいて活躍し、朝鮮出兵では先発隊の指揮官を務めました。加藤清正が行長軍を追い越し抜け駆けしようとした際には、刃傷沙汰寸前になるまで清正と言い争いました。 慶長5年(1600)宇土城が加藤清正による攻撃を受けたため、当時の宇土城代・小西隼人からの要請で援軍を出しましたが、途中で清正に阻まれ宇土城を助けることはできませんでした。 関ヶ原合戦後、麦島城を開城し、薩摩へ逃れました。慶長7年(1602)同地で亡くなり、遺体は長崎に送られたといいます。

内藤忠俊(如安/飛騨守)

ジョアン

?-1626

内藤飛騨守を名乗り、明・朝鮮側の史書では「小西飛(ソンビ)」の略称で現われます。一般に内藤如安の名で知られており、如安は洗礼名ジョアンの当て字です。 出自・履歴などはほとんど不明ですが、行長に朝鮮出兵の際、講和使として登用され、後には小西姓を名乗るほどに重用されています。 行長の死後、一時は加藤清正に仕えますが、棄教を迫られたため、まもなく加賀前田家の侍臣となりました。慶長19年(1626)、キリシタンであったため、高山右近とともにマニラに追放され、寛永3年(1626)その地で亡くなりました。

結城弥平次

ジョルジ

1544-?

天文13年(1544)に生まれ、結城忠正の甥で、河内岡山城城主・結城ジョアンの家老となりました。 結城ジョアンの死後は高山右近に、右近改易後は行長に仕え、行長の肥後転封後は愛藤寺城・岩尾城の城代を太田市兵衛とともに任されました。弥平次は矢部に司祭館を建築し、司祭を常駐させるほど熱心なキリシタンでした。 関ヶ原合戦後は城を明け渡し、薩摩へ逃れました。その後慶長7年(1602)有馬晴信に召抱えられ、金山城の城主を任されました。晴信の死後キリシタン弾圧が激しくなってからは、長崎へ追放され、その後の消息は不明です。一説によると、寛永5年(1628)末次平蔵の台湾派遣船に浜田弥兵衛とともに乗船したといわれています。

 

 

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