宇土城跡(城山) うとじょうあと(しろやま)
区分
宇土市指定史跡(昭和33.3.14)


解説
小西行長は天正16年(1588)に肥後に入国すると、ひとまず西岡台に築かれていた宇土城に入り、まもなく西岡台の東に新城を築造しました。東西150メートル・南北130メートルの本丸を中心として二ノ丸・三ノ丸を備え、重臣屋敷や家臣屋敷を古城町から神馬町城、馬場の一帯に築いています。
しかしその後、関ヶ原の戦いで行長は敗れ、行長の弟隼人が城代として守っていた宇土城も落城、肥後一国を領有した加藤氏のもとで大規模な改修がなされたため、今みることができる遺構は基本的に加藤時代のものです。
加えて、慶長17年(1612)に破却された後、島原の乱後に再度破壊されたうえ、明治以降本丸域以外の開発造成も進み、かつての偉容をしのぶ材料はごくわずかしかありません。
関連
石ノ瀬城跡・宇土城跡(小西城)周辺・宇土城跡(小西城)出土の軒平瓦・宇土城跡(西岡台)
所在地
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