轟水源地及び樋管 とどろきすいげんちおよびひかん
区分
宇土市指定史跡(昭和33.3.14)
解説
宇土町の水は飲用水に適しなかったため、寛文3年(1663)宇土藩初代藩主細川行孝の時、松橋焼の陶管を使った水道管を造り、轟水源から約3キロメートル離れた宇土の町中まで飲用水を引きました。
それから100年程経つと水道管の破損箇所から雨水が入り込み、水道水の濁りや水漏れが目立ってきたため、宇土藩5代藩主細川興文(おきのり)の時、馬門石をくりぬいた水道管に替える全面改修が行われました。
行孝代に建設され、興文代に改修された轟泉水道は、人々に飲用水をもたらしただけでなく、田畑の灌漑用水としても用いられました。現在も使われているこの水道は、使用中の上水道としては日本最古といわれています。
関連
轟水源井戸・轟水源・紙芝居「轟泉水道物語」
所在地
宇土市石橋町、神馬町、宮庄町他
より大きな地図でデジタルミュージアムを表示