小西行長

2010年12月17日

15万石の領主

小西行長像の写真小西行長は、堺(大阪)の商家に生まれ、21才になったころ、豊臣秀吉に家来として召しかかえられ武士になりました。その後、数々の手柄により出世し、1588年(天正16年)には加藤清正と共に肥後国へ入り、宇土約15万石(宇土・益城・八代・天草の4郡)の領主となりました。

行長は、入国の翌年にはそれまで西岡台にあった城(中世宇土城)を、その東方に隣接する城山に移すべく工事を始めました。そして完成したのが近世宇土城(小西城)です。行長が宇土の領主であったのは僅か13年程でしたが、新城の建設と平行して宇土の城下町造りにも取り組んでおり、市街地の基盤はこの時に形づくられたものです。

行長は熱心なキリシタンでしたので、当時、宇土周辺にも多くのキリシタンが増えたと言われています。


秀吉が朝鮮進出を目指した文禄・慶長の役では、行長は加藤清正等と共に自軍を率いて出兵しています。文禄の役では行長軍は先陣として戦果をあげ、また秀吉の突然の死により退却を余儀なくされた慶長の役では、和平交渉の大役を担当して“智将”としての才覚が認められました。

しかし秀吉の死後、石田三成と徳川家康の勢力争いとなり、行長は石田方(西軍)の主力として、手勢を率いて“関ヶ原の戦い”に参戦しました。しかし、奮戦の甲斐もなく敗れ、捕えられて京都で処刑されました。この時、42歳でした。

現在、宇土城の本丸跡は公園化され、悲運の武将“小西行長”の銅像が西の空を見つめるようにして立っています。

宇土市デジタルミュージアムにも小西行長の情報が多数掲載されております。

宇土市デジタルミュージアム

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