様々な視点から「ふるさと花園」をみる②

2026年04月27日

立岡池や立岡自然公園は、地元の人々にとっては憩いの場であるとともに、毎年咲き誇る桜が、地元以外の人々も惹きつける場所です。あの一帯の池が、遊歩道を境に「花園池」と「立岡池」に分かれているのをご存じですか。私は初めて知りました。現在、「立岡の池」と言えばたいていの人がピンきますが、いろいろネットで見ていたところ、その歴史にたどりつきました。農林水産省のホームページに「特色のあるため池の紹介」というセクションがあるのですが、熊本県からは「立岡池・花園池」が紹介されていました。その記事によると、「加藤清正が、松山手永地域で、不足する農業用水確保のために、立岡池の築造を企画して、自ら工事を監督したと伝承されています」とのこと。なお、「手永」とは、江戸時代の肥後熊本藩(細川家)が領内統治に導入した、郡と村の中間に位置する独自の行政区画・制度のことです。なお、当時は、宇土半島基幹部から半島にかけての地域には、松山手永と郡浦手永がありました。花園地区はもちろん松山手永に属していました。ちなみに当時の松山手永には、花園、宇土、網津等の地域の他、不知火や松合、そして三角町の大岳地区の一部も含まれていました。それぞれの手永には「会所」という役所が置かれていましたが、本町付近に松山手永の会所跡があるそうです(近々行ってみたいと思います)。

 さて、松山手永の惣庄屋であった三隅丈八は、1824年から立岡池の大幅拡張に着手し、1829年には松山手永の11ヶ村で水利用が開始されたそうです。 また、有明海に面した松山手永の水田は水はけが悪かったため、やはり惣庄屋であった久保桂助により1854年から翌年にかけて立岡池の直下流に花園池が築造されたのだそうです。

 昔の人たちが、自分たちの土地を豊かにするために努力してきた跡だと思うと、いつも眺めている池が、また違ったものに見えてくるかもしれませんね。

 また、毎年美しく咲き誇る桜は、第二次世界大戦後、近隣の青年団有志の手により植えられたものだとか。ここにも、ふるさとを愛する人々の思いを感じることができます。

 校歌の1番に登場する歌詞、「世紀はひらく朝ぼらけ ああ立岡の水清く」の部分を、思いを込めて歌ってほしいと思った次第でした。

立岡の池


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