田平城跡 たびらじょうあと
区分
解説
田平城の築城年代及び築城者についての記録はありませんが、宇土城の支城(本城を守るように配置された補助的役割を持つ出城・砦・陣屋などのこと)の性格を有していたと思われ、当時は網田城と呼ばれていました。
発掘調査によって16世紀中頃以降の遺物は確認することができました。なかでも、鉄砲玉と共に玉の鋳型がみつかったことは、天正8年(1580)に薩摩の島津氏に攻められたという記録を裏付ける意味でも貴重な発見です。
後に名和家(宇土顕孝)が豊臣秀吉の命により所領が入れ替えられ、小西行長が肥後南半分を支配すると、田平城は役目を終えて廃城になったと思われます。
関連
宇土城(西岡台)・トンボシさんの墓
所在地
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