小西行長公ゆかりの地を巡る見学ツアー
第二弾ツアーレポート
日時 | 平成23年11月6日(日) 9時30分~15時30分 |
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見学地 | 宇土市役所出発~愛藤寺城跡(上益城郡山都町)~昼食(道の駅通潤橋)~岩尾城跡(山都町)~木山城跡(上益城郡益城町)~隈庄城跡(熊本市城南町)~宇土市役所着 市教育委員会文化課の藤本貴仁参事が現地で説明を行いました。 |
参加者 | 関東からの参加者も含め21名。 前回の第一弾が宇土市内の行長公ゆかりの地をめぐる内容だったので、今回は宇土市外のゆかりの地をめぐるツアーを企画しました。 普段なかなか見学することのできない山奥の愛藤寺城跡などが見学できるとあって、定員を上回る参加申込がありました。 |
当日のツアーの様子
愛藤寺城跡(上益城郡山都町)
愛藤寺城跡は、中世阿蘇氏がこの地にあった天台宗愛藤寺を他所に移して築城したと伝えられています。16世紀末の行長統治時代は、行長の家臣でキリシタンであった結城弥平次(ゆうき やへいじ)・太田市兵衛が岩尾城(山都町)と併せて城代となり、関ヶ原後は長尾善政・加藤正直が城代となりました。しかし、清正没後の翌年の慶長17年(1612)、幕命により宇土城・水俣城とともに破却されました。
愛藤寺城跡のクルス瓦は中心に花十字文、その周辺に日足文が施されています。これまで5点見つかっており、結城氏が建てた伝道所に由来する遺物との見方もあります。
木山城跡(別名:松丸城、上益城郡益城町)
木山城跡は、中世木山氏(阿蘇氏一族)代々の居城と伝えられています。天文16年(1547)に木山惟貞が赤井城(益城町赤井)を築いて移ったといわれていますが、その後も廃城とはならず、家老の竹崎筑後などが城代をつとめたとされています。また、行長が肥後南半を治めてからは、家臣の伊藤与左衛門が城代に任ぜられました。
隈庄(くまのしょう)城跡(熊本市城南町)
室町時代、隈庄はおおむね阿蘇氏の勢力下にあったものとは思われますが、16世紀初めまでの隈庄城主は明らかではありません。
この城には、天正15年(1587)の九州平定(島津攻め)において、秀吉が滞在したと伝えられており、『肥後国誌』には「小西ヵ時ニハ弟小西主殿助(とのものすけ)在城ス、太閤記云、天正十五年秀吉公征西ノ時、四月二十日隈荘城モ開渡シケレハ、即チ岡太郎右衛門ヲ番守トシテ入置ル」と記されています。
この小西主殿助は行長の弟で、洗礼名はペドロ。行長の肥後入国後、行長の家臣として隈庄城代をつとめた人物です。イエズス会の報告によれば、慶長4年(1599)頃には小西忠右衛門(ちゅうえもん)が隈庄を治めており、アゴスチイノの甥で17歳の青年であると記述があります。忠右衛門は主殿助の子と考えられており、隈庄ではこの忠右衛門が中心となって布教活動がなされ、3千名以上が洗礼を受けたとされています。
行長統治下で重要な支城として機能したとみられる隈庄城は、江戸時代になって廃城になったと伝えられています。
隈庄城本丸にて記念写真
この日は、あいにくの雨模様で、参加者の方にとっては狭い山道を歩いて登るツアー内容は大変だったと思います。けれども、ツアー終了後「以前から、この目でみたいと思っていた場所に行くことができ大変うれしかった」という声が寄せられ、ツアー第2弾も好評のうちに終了しました。
参加された方々の感想
- 大変有意義でした。以前より愛藤寺城跡をこの目でみたいとの思いでした。宇土市教育委員会の講演会で、愛藤寺城跡の話をきき益々その思いは強くなっていたので、今回その実現となり嬉しく思います。隈庄城も本当に嬉しく思いました。
- 雨が降ってもなんのその、有意義な一日でした。国境の山城、木山城、隈庄城・・それぞれの城を味わい深く見学しました。楽しかったです。ありがとうございました。
- 参加できて大変よかったです。初めて行くところばかりで説明もよくわかりました。 雨でなかったらもっとよかったです。
- ツアー資料がよくできていました。ツアー実施は大変でしょうが、継続してほしい。1人で行っても断片的なことしかわからないが、現地説明は最高でした。
- バスの移動中に、ドキュメンタリードラマ「海の司令官 小西行長」を流してもらいたかった。
- 特に愛藤寺城跡は一度見たいと思っていた史跡だったので、大変感激しました。また、雨の降りしきる中、職員の方が熱意を持ってお世話いただきありがとうございました。
- 初参加でしたが、多いに興味がわいてきました。
- 点と点の史跡をつなげてまわり、解説をしていただき、基礎的な知識は乏しいもののよく理解できました。